「虐待経験・生立ちを言い訳にするな」の論調は本当に正しいのか?

「『虐待を受けて育ったこと』を言い訳にするな」
「いい年して、いつまで親や生立ちのせいにしているの」
「他人のせいにするのは楽だよなw」
「過去にいつまでもとらわれないで、前を向いてい歩いていかなきゃ」

虐待サバイバーの方々がしばしば受ける言葉です。
他方で凄惨とも言える虐待経験を有する人にとって、こうした言葉は果たしてどのように聞こえ、そして受け止められているのでしょうか。

この記事では、こうした論調がどんな影響をもたらすのか、その当否も含め徹底的に考えてみます。

過去の虐待経験で苦しんでいる方はもちろん、上記のような言葉でさらに苦しめられていると感じる方は是非参考にしてみてください。

本記事はやや過激な表現と共に、一般論への痛烈な批判を伴う内容となっております。
また、その記事内容は筆者の個人的な見解であり、かつ全ての事例に一律に当てはまるものではない旨をご了承ください。

この記事の執筆者

幼少期から全身に大けがを負うほどの凄惨な虐待を父親から受けて育つ。
一方、その父親と学校側との絶え間ない衝突・対立から、あまり通学をしないまま子供時代を過ごす。
中年にさしかかる頃、孤独の中でようやく自身の存在に気付き始め、築いてきたキャリアと人間関係を全てリセット(偽りの人生に終止符を打つ)。
現在は実務の第一線から離れ、人生の夢と希望を追いながら奮闘中。

目次

虐待を受けて育った人の三重苦

  • 虐待そのものの苦痛
  • 生涯続く悪夢のフラッシュバック
  • 追い打ちをかける、他者からの辛辣な言動

虐待には、言葉の暴力から、ネグレクト、さらには凄惨な身体的暴力まで様々なものがあります。

その心的外傷の度合いは単純には比較できません。
というより、それを受けた者にしかわからない、特有の負の影響があると言ってよいでしょう。

中でも身体的な虐待の場合は、その影響は深刻で、とぐろを巻くように暗闇へと当人を陥れていきます。

しかも事あるごとに繰り返し、悪夢の瞬間が再現されるのです。

こうしたトラウマは魂の殺害・破壊、などと言われますが、その受けた人間の言動・思考・感覚などすべてを歪めてしまうのが一般的。

他方で、周囲の人たちは虐待自体の深刻さはもちろん、それとの因果関係を理解できず、結果、冒頭で述べた辛辣な言葉となって返ってきます。

こうして虐待を受けた人間は、生涯にわたって二重三重に負の遺産を背負っていくことになります。

虐待を受けた人を理解する人はいない

他者との関係を築くことの難しさ

虐待を受けて育った人が、他者との関係を上手く築けないというのはよく聞く話です。

実際、彼らとやり取りをしようとすると、確かに反応が普通でないことが少なくなさそうです。
正直、空気が読めない、なんてレベルではありません。
上でも触れたように、思考、感覚、そして言動、全てがズレているのです。

おそらく本人も何とか改善しようと(本人なりに)努力するのですが、かえっておかしな方向へ向いていきます。

傍から見ても「違うんだよなぁ~」と誰もが思うでしょう。

その結果、どうなるか。

若いうちは(30代くらいまでは)さらに厳しく責め立てられることがあるかもしれません。

それに対して本人は、(どうして責められているのか分からず)同じような反応を繰り返してしまいます。

虐待経験は受けてみないと理解できない

虐待経験というものがどういうものかは、感覚的に理解できないのは当然です。
有識者等の専門家であっても100%は難しいと思います。

例えば癌の専門医であっても(癌にかかったことが無ければ)その痛みや恐怖を感覚的に理解するのは難しいのではないでしょうか。

健常者、特にご両親からそれなりに愛情を受け、かつ人生の困難を克服してこられた方からすれば、
虐待経験自体が言い訳であり、(親などへ)責任転嫁しているようにしか聞こえません。

もっとも、彼ら(健常者)に理解を求めること自体に無理があり、ある意味、大間違いであるとも言えます。

失礼ながら、二次元の世界に住む生き物に「高さ」の概念を説明するようなものだと思います。
否定されて当然です。

他者には愚痴に聞こえる

では虐待を受けたり、不遇な生立ちを過ごしたもの同士での理解は可能でしょうか。

ケースバイケースですが、おそらく、ある程度の共感はシェアされるものの、これまた完全な理解は難しいと言えるでしょう。

例えば身体的な虐待を経験した人間と、貧困家庭で育った人間との間で、相互の苦労の理解はどこまで進むでしょうか。

ある程度の共感や理解の努力はあると思いますが、心の傷や人生への影響は全く異なることから、この両者の間での相互理解には限界があります。

結果としては、後者(貧困家庭出身者)が前者(虐待サバイバー)に対して「いつまで他人(親)のせいにしているんだ!」的なスタンスで非難することが多いです。

また、虐待サバイバー同士で話をしていても、やがて相手の話が愚痴に聞こえてくるものです。

つまり虐待を受けて育ってきた者は(その人間だけが存在した)全く別の世界から来た特異な存在なのです。
一般の健常者から見れば尚更です。

最初のうちは異世界の話に面白く聞こえるかもしれませんが。

虐待を受けた者の行き着くところ

若いうちはそれでも未来や希望があるので、できれば何とか人生を切り開こうと努力される方も多いです。

そのため積極的に他者と交流したり、仕事も頑張ろうとするものです。
大学等を卒業すれば通常、就職もしますから。

また、自分の中に起こっている異常に気づかず、そのまま社会に出ていく方も少なくありません。

他方で、他者とのつながりを深めようとするあまり、相手に対して自分への理解を求めてしまいます。

おそらく年齢的に30代くらいまでは、積極的に他者とのコミュニケーションを自分なりに持とうとしますが、上で述べた通り、それが上手くいきません。

その結果が、冒頭で述べた言葉や反応です。
でもこうした反応は、虐待を受けた人間にとっては更なる傷となり、人間関係を悪化させてしまいます。

さらには自分を守るために他者との間に壁を作ったり、極端な場合は仕事も辞め、外の世界とも完全に関係を断ってしまうこともあるでしょう。

人間なんて絶対に互いに理解できないのだな

こんな風に、ある意味で人への不信や不満が強まっていきます。

結局、多くの虐待サバイバーの行き着く先には「孤立」の二文字が待っているのです。

ちなみに、ある有識者によれば、子供の頃に不遇な境遇を過ごした人の多くは(幸せになることなく、孤立して)世を恨み、人を恨み、死んでいく、のだそうです。

有害無益な人生論

「過去にとらわれず、前向きに生きていけ」という言葉の落とし穴

「いい加減に過去にとらわれず、前を向いたらどうだ」

この言葉は一般的な人のみならず、それなり人生経験をした方々からも寄せられるものです。

特に(苦難を乗り越えて)成功された方からの、この言葉は、一見すると万能薬のようにすら思えます。

でもそこに落とし穴が。

まず、虐待を受けた各人と、その言葉を発した方とは(経験も含め)全く別の存在です。

にもかかわらず、自分の価値観や論理だけが唯一絶対だと錯覚しているため、それを虐待サバイバーにも一律に押し付けようとします。

当然ながら、虐待を受けた人への理解が全く欠如しているのですが、そもそも目を向けることすらしないのです。

また「あなたのためを思って言っているのです」的な論調も同様。

いかにも、という感じですが、そもそも「思って言っている」のは誰か。
その論調を語っている当人です。

結局、(理解を欠いている以上)これらの発言は狭い価値観や浅薄な理屈の一方的な主張であり、
もっともらしい言葉を並べることで自分の欲求を充足しようと躍起になっているに過ぎないのです。

相手にするだけアホらしいですよね。

それでも残念ながら、虐待を受けた話をする人=何でも親のせいにする卑怯者、と短絡的に捉えるステレオタイプは世間に少なからず存在します。

ですので、特に書籍やネットで一般論的に展開されている論調には特に注意した方がよいでしょう(と言うより近寄らない方がよい)。

絶対に人生を改善することができない人生論:
これもしばしば見受けられるのですが、「逆境や苦難を乗り越えるのが人間である」などと簡単に口にする論者がいます。
いかにも正論っぽく聞こえるし、同調者の数は、そうでない人の数を大きく凌駕【りょうが】しそうです。
確かに筆者も(悲惨な境遇にもかかわらず)今のところ犯罪には手を染めていないし(たぶん)、多くの人がそれなりに人生を生き抜いています。

ですが、決して武勇伝のごとく乗り越えているわけではありません。乗り越えるだの克服だの、という次元の内容ではないのです。
筆者も含め多くの人が、最悪の状況に至る数歩手前で踏みとどまっているのが実情です。
結局、先の論者たちは現実や本質から目を背けているのですが、なまじ知恵や教養があるがゆえに自分の傲慢さに気づけません。
同調圧力を集め虐待サバイバーたちを更に孤立へと追いやり、潰しにかかることで得意になっている、このレベルです。
ゆえに、この手の論調に対しては、真剣に耳を傾けること自体、○○ということになってきます!

本当に「他人のせいにしている」人とは(参考)

虐待経験に関連して「いい年して、いつまでも他人(虐待をした親)のせいにして」との主張は本当に多いです。

ところで、ここで「他人のせいにする」人ってどんな人でしょうか。

意外と明瞭です。
この言葉をやたら使いたがる人たち、あるいは、一般論でこの言葉を安易に持ちだそうとする人たちです。

「他人のせいにする」

この言葉。いかにももっともらしく聞こえますね。
しかもこの言葉を口にしている人が唯一絶対の正解者のように見えてきます。

そうです。
「自分だけは絶対に正しい、間違いない」と先に(一方的に)宣言したうえで、批判や非難の外に逃げてしまっているのです。
個々の事象をしっかり理解していないにもかかわらず、です(本人は理解しているつもりなので、傲慢さも付いて回ります)。

この論調をする人は意外とインテリや頭の良い人に多く、また読書家であったり知識も豊富だったりします。

ですがハッキリ言って、人間の知識や知恵などたかが知れています。
上でも触れましたが、そうした知識や教養ゆえに傲慢になり、かえって視野を狭くしているのです。

結果的に、自分の狭い価値観や論理を、個々の事例に対して一律かつ短絡的に当てはめ、決めつけてしまっています。
先に述べた論者たちがまさにそれに該当します。

ですので、虐待サバイバーにとって、他者(特に優秀な人たち)との関わりは注意が必要。

もし、逆に最後まで聞き役に徹してくれた人がいたとしたら、それは貴重な存在です。

本当に賢い人は(理解できないときは)口を開かないか、スルーしますね。

孤独は本当に悪いことばかりなのか

上では、虐待を受けて育った者は「孤立」しやすいという点に触れました。

ここでは関連することとして、「孤独」について筆者の私見を述べておきます(注:「孤立」とは他者とのつながりが乏しいという客観的な状況なのに対して、「孤独」はどのように感じるか、という主観的なもの)。

よく、孤独はネガティブ思考に陥りやすいので他者とのかかわりを大切にせよ、などと言われます。

言いたいことは分かるのですが、その他者とのかかわりで虐待サバイバーは様々な問題を抱えやすいのです。

自分に合ったカウンセラー等に会い、信頼関係のもとで安心してお話し等ができればいいのですが、その場合でも一般社会との関係では孤独な状態です。

また、カウンセリングを受ければ自動的に虐待のトラウマから回復するわけではありません(しかもカウンセリングは有料で安くはない)。
時間もかかるうえ、なにより自身についての深い考察が求められます。

そこでまずは、孤独は悪いことと捉えるのではなく、静かに自分と向き合えるチャンスぐらいに思っておくとよいでしょう。
焦りは禁物です。

実は孤独な時間は大変貴重で、しかもネガティブな思考に陥ることばかりではありません。
むしろ、マイナス面を出すことなくメリットを享受できることも十分可能です。

特に虐待サバイバーにとって、孤独を受け入れることは、自分の存在意義を確かめるうえでも大切なことだと考えます。

逆に言えば、社会的なつながりだけで自身の存在価値を見つけ出すのはかなり難しいということ。
表面的な(偽りの)関係を作っては断絶する、の繰り返しで自分が徒に疲弊していく可能性が高いです。

では孤独な状況下で具体的にどうしたらよいのか。

この点に関して以下の別記事をご用意しておりますので、興味のある方は是非ご一読ください。

最後に~孤独だと本当に自由だよ~

最期に「孤独」についてもう一言コメントしておきます。
参考まで。

孤独とはある意味で、自分を「例外的な、自由な存在である」と認識することです。

「例外」などと言うと、特に日本では「身勝手」などと受け止められがちですが、見方を変えれば「世間や大衆に染まっていない」「洗脳されていない」とも言えるでしょう。

よく「○○の共通点」とか「△△の特徴」「××の人の末路」などと言ったタイトルを目にしますが(筆者も時々やってしまう)、日本人って本当に型を作って(強引に)当てはめるのが好きです。

「例外」についてもこうした型に当てはめ、自分たちの価値観や考え方の優位性や正統性を強調することで、社会から排斥しようと試みます。

確かに、生きていれば、通常はそれぞれの立場や周囲への配慮・関係から様々な束縛があるものです(その結果、言いたいことも言えないし、行動もなにかと制約される)。

でも「孤独」(≒「例外」)であれば、そうした足枷(あしかせ)がありません。

他方で今日は時代の流れが速く、先行きが不透明で混沌としています。本当に何がどうなるか分からない。

そうした状況下で周囲に振り回されず、自由に自身に問いかけ自由に動けることは大変貴重であると思いませんか。

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