人は誰でも多かれ少なかれ負の部分を背負って生きているものです。
他方で普段の生活ではそれを押し殺して過ごしていることでしょう。
筆者も日常では胸の内とは殆ど正反対のことを口にしています。
ですが、負の側面から目を背け、いわゆる”綺麗事的に”作り上げられたものばかりに目を向けていては本質には迫れません。
だからこそ今回は(筆者にとっても大変厳しい作業でしたが)、
虐待や体罰という過酷な体験に真正面から向き合うとともに、結果としての筆者の世界観(社会がどう見えるか)を本音で綴っていきます。
特に次のような方には是非お読みいただき、参考にしていただけたらと思います。
- 虐待の実態に関心のある方
- 体罰の是非・当否について考えている方
- 指導・教育に体罰は必要、愛情と体罰は表裏一体である、と考えている方
- 厳しさイコール身体的破壊や苦痛、と考えている方
- 昭和から平成にかけて教育に携わってこられた方
<ご注意>
本文は1万字を超える長文エッセイです。
また、過激な表現と共にネガティブな記述があるため、閲覧の際には、その旨ご留意いただきますようお願いいたします。
なお、筆者の世界観は本文で紹介する通りですが、当記事の根本的な趣旨は虐待や体罰の撲滅であることを強調しておきます。
虐待・体罰の実態と当事者達
背景
ユキハル(昭和9年生まれ 熊本出身)。筆者の親父の名前だ。
平成の後半に他界している。
親父は7人兄弟の長男。苦学して東大を卒業した後、一時は東京の霞が関で官僚をしていた。
在職中に汚職事件に巻き込まれて役所を追われたが、後に法曹に転身。
虎ノ門界隈で事務所を構え、大企業相手に荒稼ぎしていた。
親父は外面は良く、勉強ができた上、仕事もやり手だった。
50代前半くらいまでは人格者で通っていたようだ。
だが、それは親父の一面に過ぎず、家では全く違った顔をのぞかせていた。
その例として筆者の心に今でもこびりついているエピソードをいくつかお話ししたい。
まずは親父が頻繁に口にしていた言葉から。
「飯はできるだけマズくして食わせろ」(美味しいものを食べると好き嫌いが生じやすい、という理由から)
「早稲田・慶應(大学名)は馬鹿の行くところ。そこに行くくらいなら、そば屋の丁稚になったほうがまだマシ」(親父自身は東大卒)
「お前らの祖父(筆者の母親の父)は先祖の財産を右から左に流して食っていただけの、人間のクズ」(その祖父の家は代々、資産家で、祖父自身、実社会で働いたことが無かった)
親父は幼少期から食べるに困りながらも、ずば抜けて頭が切れたうえ、どん底から這い上がり、それなりの富を築いた。
他方、苦労し過ぎたため、僻み・妬みのカタマリといった側面も。
特に悪く言うのが快感のようで、他人の失敗や不幸が嬉しくてたまらないようだ。
しかもそれらを面白おかしく5倍にも10倍にも膨らませるのが得意だった(もちろん外では別人のように振る舞っていた)。
だがそれだけではなかった。
キレやすく直ぐに手が出るのだ。
そのため家族の者が常に気を使ったり、顔色を窺わなければならなかった。
ざっと簡単に紹介したが、これが筆者の親父、ユキハルである。
なお、学歴の話に触れたので補足しておく。
ご存じの方も多いと思うが、昔ながらの教育者やエリート一族は異常なほど学歴至上主義だった。
基本的にはユキハルも同じである。
が、厳密には学歴自体ではなく、受験勉強で勝ち抜くことを至上命題としていたのだ。
とにかく試験、試験、試験。人生は全て試験で決まる、といった具合だ。
例えば(中国の)科挙の試験や野口英世(会津出身の細菌学者)の話をよくしていた。
野口英世は子供の頃から独学で(受験)勉強ばかりしていたらしい。
極端な例だと、こんなことも。
「東大理Ⅲに合格して、そこ(理Ⅲ)を蹴って、最低のボンクラ私大医学部に行くのがカッコイイんだぞ!理Ⅲに受かったらいくらでも(私大医学部の学費に)金を出してやる!」
「通らなくても仕方ない(唯一の難関の)試験は女子校や女子大の入試ぐらいだ!」と。
こうした事情から、さぞかし筆者も勉強はできたのではないか、と思う方もいるだろう。
だが現実は正反対。
後で詳しくお話しするが、子供の頃は学校にあまり通っておらず、勉強もしていなかった。
どういうわけか、親父は学校の成績については関心をまったく示さなかった。
筆者が本気で勉強を始めたのは高校入学後であったが、遅すぎたようだ。
当時の虐待・体罰の様子ってこんな感じ(閲覧注意)
ここからは思い出すのもかなりキツイが、できるだけ書いてみる。
親父が凄惨な暴行に走るのは、その怒りが爆発するときだが、その程度が尋常ではなかった。
まるでカルデラ噴火の如くだ(親父はその都度、怒るのではなく、エネルギーをため込んでまとめて感情を爆発させた)。
決して大袈裟なことではなく、生命が危険にさらされるレベルだった。
親父としても、状況次第では(子の)命を奪うこともやむなし、と思う節があったようだ。
あれは確か筆者が小学校1年(6歳)ぐらいのことだったと思う。
寒い冬の夜のことだった。
発端は覚えていないが、
とにかくまず「出ていけ!」と凄まじい声で言われ玄関を出た。
服装は下着姿のまま。
近所をうろついた後、行くところも無く、とりあえず家の庭まで戻る。
そこには木刀を片手にした親父が仁王立ちしていた。
親父は筆者に近づくや否や、「ウオ~!」という唸り声と共に木刀を筆者の体に振り下ろす。
渾身の力で。何度も何度も。
筆者は立っていられず倒れ込んだ。慌てて母が筆者の体に覆いかぶさる。
その母に対して親父は吠える。
「お前は父親が正しい教育をしているのになぜ邪魔をするのだ!」
その雄たけびは町内全域に響き渡ったのではないだろうか。
母が庇ってくれなければ間違いなくあの日が筆者の命日になっていた。
それからというもの、母親の口癖は「あんた、いつかお父さんに殺されるよ!」であった。
翌朝、気づていみるとベッドの上で横になっていた。
とにかく痛みで涙が止まらない。
ベッドからカーテン越しに(一部の割れた木刀の破片で)通学前の子供たちがチャンバラごっこをして遊んでいるのが(涙でかすみながらも)見えた。
この痛みは続き、数日は動けなかったと思う。
後日、親父に付き添われて病院へ行った。
その時の診察の場面である。
診察した医師が(ズタズタになった体を見て)驚く。
「どうしたんだ!」
筆者は「転んだ」とだけつぶやいた。
するとそばにいた親父は誇らしげに一言、
「親父に半殺しにされたんだよな!」と。
息をのむ医師の顔が忘れられない。
こんなことは氷山の一角だ。
筆者が眠っているところを(頭部を)いきなり殴りつけられたこともあった。
怪我をすれば、その患部をさらに殴りつけることも。
とにかく(心配させたことも含め)気に障れば気が済むまで力任せに殴り続けた。
そんな親父は、自分は最高の教育者でもある、と本当に思い込んでいた。
しかもこの上なく子供達へ愛情を注いでいる、と確信しているのだ。
親父の暴力は、筆者たち兄弟に向けてばかりではなかった。
例えば、週末、家に帰ってくると、母親が(腫れ上がった顔面から)血を流して倒れている、といったこともある(当時、警察は民事不介入としていた)。
この手の昭和男は(周囲から見放され、悲惨な末路を辿ろうとも)自分の非を決して認めないし、「時代が変われば…」という理屈も通用しない。
家出すればよかったのに、と人は言うが…
同様に言葉遣いも酷かった。
「死ね」「殺す」
親父から出るのは、こんな言葉ばかり。
「喜び」や「感謝」の言葉は家族に対しては絶対に使ってはならないのだ。
例えば次のような感じ。
母親が「お父さん、こんなことばかりしてたら子供たちは自殺しちゃうよ」と言ったことがあったが、
これに対して親父は「自殺なんかしてみろ、ぶっ殺してやる」などとキレていた。
子供のころからこうした状況にドップリつかっていると、
否応なしに言葉(遣い)が麻痺してくる(というか、無頓着になってくる)ものだ。
そんなこんなで、とにかく(親父が出勤しない)週末がくるのが憂鬱だった。
親父の気分次第でまたやられる。
今週は無事に過ごせるかなぁ…
これが筆者の記憶にある、子供のころの全てである。
他にも何かあっただろう、って?
家族旅行、外食…
確かに親父は稼ぎはあったので、周囲には裕福に映っていただろう。
よく「立派なお父様がいてくれて、本当にお幸せですね」などと言われたものだ。
実際、親父は最高級のベンツを頻繁に買い替えていたし、休日は高級旅館に泊まり歩いていた。
だが(荒稼ぎした)金の使い方は、自分の呪われた生い立ちに復讐するがごとく、であった。
そこに感謝の気持ちや満足の言葉はない。
もちろん筆者たちも旅行等に行って楽しかった記憶はない。
親父の機嫌を取るのが精一杯だった。
コイツ(親父)のために(豪華料理)を食ってやってやるのだ。
楽しんでいるふりをするのだ。でないと…
これまた「美味しい」「楽しい」「嬉しい」「有難い」とは無縁の世界である。
ちなみに筆者は素麺があまり好きになれない。
我が家の食卓に度々上がったが、食事中に殴られては白い麺が(鼻からの)出血で赤色に染まることがあったからだ。それを「美味しいと」言って食べないと、またやられる。
今でも素麺にあの血の味が染みついてしまっているほどだ(筆者は密かに素麺を「鼻血麺」と呼んでいた)。
食事中の暴行劇は漫画「巨人の星」だけではないのだ。
今、振り返って見ても、よく生きてきたなぁ、と思う。
他に逃げ道がないし、生きる術もなった。
しかも成長した頃にはあの状況が当たり前になってしまっており、家を飛び出すことすら考えつかなかった。
仮に家出しても、せいぜい半グレに身を落とし、世間様に迷惑をかけていただけだろう。
親父の晩年
高齢になるにつれて、親父も自分のやってきたことが流石にまずかったと感じ始めたようだ。
だが相変わらず卑怯な正当化は続く。
「親足らずとも子足らずべからず、だ!」
親父が最後まで口にしていた言葉である。
なるほど、いかにも東大卒の賢そうな物言いだ。
自分の非を認めて少しでも謝罪すれば、僅かながらの人格者の影も窺えたであろうに、
家族に対しては絶対にしない(できない)のだ。
それどころか挙句の果ては
「そうか。俺の教育が間違っていたのか。だったらお前を殺して俺も死ぬよ!」
であった。
そんな親父、ユキハルの晩年は実に哀れだった。
仕事でも大手クライアントとの衝突やトラブルが常態化し、多くが去っていった(家でやっていた振舞いが外でも露呈していたようだ)。
虚勢を続ける親父に対し、仕事の仲間も知人も離れ始めた。
還暦に差し掛かるころには、持病の糖尿病が悪化するとともに、脳梗塞を発症。
垂れ流しの哀れな晩年を過ごす。
それでも
「俺は(仮に自分が間違っていても)変えられないんだよ!(どうしても俺の意に背くのなら)頼むから俺にわからないようにしてくれ!」
と、寝たきりの状態で悲痛な叫びをあげていた。
親父の死去に際し、筆者は葬儀こそしてやったが、
生前懇意にしていたはずの人たちの参列は殆どなし。
親父を「人格者」と称賛していた人間すら焼香に訪れることはなかった。
社会も親父に愛想をつかしていたことを如実に表していた。
(葬儀はしたが)筆者も心の底では、
ユキハルよ、俺はお前を父親だとは思っていない
あれで(惨めな垂れ流しの晩年で)済むと思うな、貴様への天の裁きはこれから(死んでから)だ!
と。
後日、位牌も叩き割って捨ててしまった。
もっとも、いくら恨み節を言っても悪態をついても何も変わらない。
また社会に自分の居場所がないこともわかっていた。
なにより筆者も同じ穴のむじな。
親父の悪しき因縁はしっかり受け継いでいるのだった。
こんな苦労でも、買ってでもすべき?~親父の若い頃の話~
自分の父親を死に追いやることで生き延びる
ここで親父の若い頃の話をしてみようと思う。
親父の父(筆者の祖父に当たる)も親父同様、最悪の男だった。
名前はナオタケ。
筆者がこの世に生を受けたときはすでにこの世にいなかったため、以下は親父から聞いた話だ。
祖父ナオタケは、働かず毎日酒を飲んでは家族に対して、暴力をふるっていたという。
いわゆる酒乱だ。
そんな中、長男だった親父は、他の兄弟を養うため朝から晩まで働き詰めた。
時には売血(自分の血液を売ること)をしたり、蛇を捕えて食べることもあったようだ。
ある冬の朝、雪が降る中、下駄一足で仕事へ。
その日は大八車を引いて荷物を運ばなくてはならなかったが、途中、履いていた下駄が割れ、裸足で運搬することになる。
その結果、足裏からは出血。凍り付いた路面に血の跡が付着していった。
こうして稼いできた僅かなカネも、酒乱のナオタケがすべて取り上げ、自分の酒に回してしまった。
止めようとするとすると一升瓶を振るい、手が付けられないほどの大暴れするのだ。
一方、親父(ユキハル)の兄弟たちは栄養失調で歯茎から出血していた。
ナオタケ本人も人生に絶望し自暴自棄となっていたようだ。
なんでも若い頃、親と上手くいかず、家出。
職を転々とした後、一時期は中国(親父は支那と呼んでいた)で鉄道員をしていたという。
そんなナオタケだが、いつも酒に酔っては「親父(ナオタケの父親)が悪いんだ、親父が悪いんだ…」と愚痴をこぼしていた。
このままでは皆、飢え死にしてしまう
こう感じた親父は、とうとうやってしまったのだ。
「いいかげんにしろ!」
親父の母親(筆者の祖母<当時すでに他界>)の位牌で泥酔状態のナオタケの顔面を滅多打ちにした。筆者に対してやったように(たぶん)。
いたたまれなくなった親父(ユキハル)は家を飛び出し、雪の降る中、近くの神社の境内で一夜を明かす。
翌日、家に帰ってみるとナオタケは睡眠薬で服毒自殺を図っていた(病院にて死亡確認)。
皮肉なことに、この日を機に兄弟たちの健康状態はみるみる回復。
生活も格段に楽になっていったという。
こうした中、親父は県内の名門、熊本高校を卒業し、弟たちを養いながら6浪の末、東京大学理科2類へ進学した。
後日談
以上は、筆者が子供のころから散々、聞かされた話の一つである。
もちろん親父からは恨み、怒り、憎しみ…そんなものしか伝わってこない。
筆者もまた然りで、祖父ナオタケに対して敬う気持ちなど欠片も湧かない。
ある彼岸の頃、ナオタケの墓参りに行った時のことだ。
確か筆者が中学の頃だったと思う。
帰り際に、ナオタケの墓石に向けて筆者はある張り紙をしたのだ。
その張り紙には、ナオタケを罵倒したうえ、「地獄に落ちろ」のようなことを書いていたと思う(半ば親父への当て付けであった)。
筆者たちが帰った後、親父の弟たちがそろって墓参りに訪れたらしい。
当たり前だが、その夜、怒りの電話が立て続けにかかってきた。
普段は温厚な(親父の)弟ですら「お義姉さん(筆者の母)、息子(筆者)の教育、間違ってやしないか」とたしなめた。
これについて親父はどう反応したか。
普段は(仕事以外は)暴力と悪口しかなかった親父は、このときは少し違った(否、同じか)。
親父は「親父(ナオタケ)がくたばったおかげで、アイツら(親父の弟たち)は生きていられるのだ。アイツらにあれこれ言う資格はない!」と一蹴。
他にも親父の兄弟間にはいろいろあって、瞬く間に絶縁状態となってしまった。
あれほど苦しい中、身を寄せ合って生きてきたのに(現在も父方の親族とは一切関わっていないし、そのつもりもない)。
ちなみに筆者がナオタケの墓石にやったことだが、間違ったことをしたという認識は今もゼロである。
それどころか(もし墓石の所有者だったら)無縁仏にしてしまうだろう。
「最低の人種、それは教師!」~虐待親父と体罰教師との醜い争い~
上で親父のことを話したが、こういう人間である。
学校(の教師たち)とも上手くいくはずがない。
教育方針を巡って、学校との対立は日常茶飯事。
常に多忙なはずだが、親父は事あるごとに学校に怒鳴り込んだ。
ある日の昼休みのこと、「今日は、急きょ午後の授業はお休みです」との連絡があった。
教室の中を覗いてみると、見覚えのある、背広姿の中年男の姿が。
一瞬、まさか…であった。
当時は学校の教員たちも(親父ほどではないが)子供たちに暴行を働くのが当たり前であった。
中には感情を爆発させるのが強い愛情だと信じる連中もいる。
ではその教員たちと親父は同じ考え方だったのか。
否、真逆と言ってよいほど互いに水と油であった。
教育方針をはじめ様々なところで衝突したのだ。
しかも話し合ったところで堂々巡り。
互いの主義主張だけが繰り返され、話がかみ合わない。
おそらく最後は、
教員「あなた(親父)、親としての自覚はある?自分が言っていること間違ってないか?」
親父「あなた(教師)の方こそ教師の資格はない。辞めて土方(どかた)でもやったらどうだ」
こんな調子だっただろう。
そうこうしているうちに、筆者は学校にあまり通わなくなっていった。
「この世で最低の人種は(ヤクザでも政治家でもなく)学校の教員だ!」が親父の口癖。
対して、学校側はしばらくすると何も言ってこなくなった。話が通じないキチガイ親子はスルーでOK、といったところだろうか。
意見や考え方の対立は実社会をはじめ、どこにでもある。
また現実は円満解決ばかりではなく、争いに発展してしまうことも少なくない。
だがそんな”大人社会の闇”を目の当たりにするには、当時の筆者には少し早すぎたようだ。
筆者も一度だけ(親父と教員との)面談の場に居合わせたことがあるが、
(自分のことなどそっちのけで)大人の喧嘩はこうやるんだな、などと思って見ていた。
ここで僅かながら通っていた学校生活のことを振り返って見る。
これまで述べてきたような事情から、筆者は教室でも見事に孤立状態。
体育の授業など見学すらしていなかったと思う。
テストも殆ど受けていなかったので、確か通知表の評価は(5段階評価で)殆ど1だったはず。
そんな中、記憶にあるのは、教師たちが子供たちに暴力を振るっている場面ばかり。
卑劣な行為をして得た金で、よく家族にメシを食わせられたな、というのが一貫した感想だ。
ちなみに小学校の卒業式には出席しなかった。
担任(当時の埼玉県川越市の教員 S.K.)から卒業証書を受け取りたくなかったし、面も二度と見たくなかった。
この教員の子供たちへの暴行も酷かったが、筆者は今でもこの男から受けた(おぞましい体罰による)精神的ダメージに苦しめられている。
昼夜問わずフラッシュバックしてくるし、どうにも逃れられないのだ(親父と重なることさえある)。
当人はこれに対して(筆者を責めることはしても)自分がどれほどの過ちを犯したか認識することは決してないであろう。
こういう人間も本質は親父と同じである。
後日、卒業証書が通知表と共に送られてきたが、中身を見ることなくその場で破り捨てたのだった。
社会不適合者の人間関係はこうなる
筆者は他者とのかかわりの中で、どのように立ち振る舞ったらよいか、長い間わからなかった。
代わりに顔色を窺い、好ましそうな人間を演じてきた。
そして多くの人に気を使わせてしまった。
要するに幼少期から時間が止まっており、人間が小中学生レベルのままなのだ。
「何とか変わらなくては」と一心不乱に努めてみた時期もあった。
時間を見つけては読書をしたり、多くの人と交流したりもした。が、ますます自分が馬鹿になっていくのがわかる。
結果、周りの人間も自分も疲弊していった。
ある時、次のような出来事があった。
出張先の飛行機の中でのことである。
同行してたクライアントの担当部長から突然、ボソッと言われた。
「あなたに私の苦労が分かりますか」と。
この担当部長、なんでも小学生の頃に父親が亡くなり、苦学して上場企業の役員まで上り詰めた人物だ。
こういう叩き上げの苦労人は、筆者のような人間は虫唾(むしず)が走るだろう。
一応、筆者は立場上、「先生」などと呼ばれるのだが、当該部長からは「我慢に我慢をしてきたのだぞ」というのが伝わってくる。
続いて同行していた直属の上司が(その部長が席を外していた時に)「どんな思いで部長が言ったかわかるか」と筆者に呟いた。
筆者はここでも顔色を窺っていた。
が、この時はそれだけではない。
筆者の幼少期からの出来事が蘇った。
あの時の悪夢が襲いかかる。
しばらくの間、記憶が途切れる。目はあらぬ方句を向いていただろう。
それ以来、その上司と実質的な会話をすることはなくなった。
ただ時折、
「こんなところ(当時の職場)にいないで、自分の元居た場所に戻れよ(≒親父さんの跡を継げよ)」とだけ言われるようになった。
事務所オーナーとの相性が良かったせいか(仮面を被りさえすれば)キャリアに支障はなかったが、
結局、筆者の方から彼らとの関係を清算することに。
今ではとても後悔している。
リセットするのがあまりに遅すぎたからだ。
後になって気付いたが、確かに自分の育った異常な環境が、ある面で慣れ親しんだ故郷になっていた。
聞いた話だが、
「極道で生まれ育った者は、極道でしか生きられない。」
「ベトナム戦争で地獄に慣れてしまった者は、平和な世界には馴染めない。」
だそうだ。
現在、筆者は仕事の第一線を離れ、(若い頃からの)見果てぬ夢を全力で楽しみながら追いかけている。
どうやら実現することなく一生を終えそうだが、それはそれでよいのかもしれない。
虐待・体罰を受けて育つと、思考も感情も歪んでいく
ここからは筆者自身を対象として、現在、筆者が思っていること、感じることを正直に綴ってみる(もちろん普段は故意に正反対の言動をとるようにしている)。
まずは例として、(裁判で)いわゆる被告が弁解する様子を思い浮かべてもらいたい。
当然ながら、その発言の多くは非難される。
内容によっては(発言の機会が認められても)裁判長から口にすること自体をたしなめられることもあるだろう。
他方、筆者のような人間の感覚はこうだ。
裁判とは、あらゆる角度から自由に主張や発言ができるはずだ、と。
遺族の心情等を考慮して「アレを言ってはいけない」「コレを口にしてはいけない」というのであれば、
裁判での公平性ってなんなの?魔女裁判や東京裁判とどう違うの?
結局、裁いている側の論理や価値観だけで進められているのでは?
だったら、最初から(被告の発言など待たないで)アンタらで好きなように決めたら?
裁判など、あなた達の自己満足の場(単なるセレモニー)ですよ。
といった具合である。
同様に、(極端だが)今日、死刑廃止を主張すれば、必ずこれまた批判が起こる。
これも主に被害者側の心情からだ。
現状は加害者側の権利に偏り過ぎている、との批判も少なくない。
でも虐待を受けて育つと、そうした一般的な感覚に至らない。
というより、むしろ逆の感情が湧いてくる。
ズバリ言えば、被害者側の心情以上に加害者の生い立ちや背景に心が嫌でも向いてしまうのだ。
要するに、一般的な価値観や物事の捉え方、感じ方とズレてしまっている、と言ってよい。
そこで一応の努力はしてみる。
結果、周囲の顔色を窺い、自分の考えや価値観を捨てて、(納得いかないことについても)「ハイわかりました、おっしゃる通りです」といった上辺だけの返事をする。わかったように相槌をうつ。
平たく言えば、思考は停止するが、(自己保身のために)仮面は被るのだ。
それに加えて(ちんけなプライドは残っているため)自己顕示欲が顔をのぞかせる。
表面的には上手くコミュニケーションがとれたように思えたりもする。
だが、そんな化けの皮はすぐに剥がれ落ちるもの。
結果、他者との関わりは遠のく。極力、社会に参加しなくなる。
そう、孤立していく。
法律やルールは守る。皆で決めた事にも従う。もちろん約束や時間も守る。(少ないながらも)納税もする。
でもそこまで。
あなた方の好きなように何でも決めたらいいよ。
私は(皆さんを傷つけないように)大人しくしているから。
こんな感じだろうか。
ここまでお読みいただいて、次のような感想を抱いた方もいるだろう。
「なんで早く家を出なかったの?独りでは生活できないから?結局、損得計算して楽な方を選んだだけじゃないの。
辛いのを全てをお父様のせいにして。卑怯なのはお父様ではなく、執筆者さん、あなたのほうですよ」
こう思った方、ご安心を。
筆者もあなたを全く理解していないので、お互い様であり、お相子(あいこ)である。
筆者が行き着いた、短絡的な危うい世界観(戯言)
最後に筆者が行き着いた世界観を少しだけ紹介しておきたい(もちろん表向きは決して口にすることはない)。
現在、多くの人が世界は総じて悪い方へ進んいると感じている。
環境、社会、国際情勢、そして人々の心…挙げたらキリがないであろう。
ではなぜ世の中や社会がこんなにも悪く感じるのだろうか。
教育が悪いから?先人が悪いから?政治家が悪いから?平和過ぎるから?…
それならまだ救いがあると思う。
悪い面をなくす、あるいは改善する努力をしていけばよいのだから。
対して社会の落伍者である筆者の考えはこうだ。
一言で言えば、悪くなる根源は
「良くしたいから」という動機、そして(動物や虫にはない)知恵
である。
この「良くしたい」という動機。
正しいことに向けての意志、といってもよいだろう。
でも、この「良い」とか「正しいこと」って誰が決めるのだろう。
多くの場合は、最終的に責任を負うべき当人が判断する。神ではない。
そこにはその人の主観や価値観を伴う(裁判官の判断などは典型だろう)。
「客観的」という言葉があるが(実証データを伴う科学的判断は別として)
第三者の意見などは所詮、人の判断(の集まり)に過ぎず、絶対なものではない。参考にはなるが…
絶対の保証はない一方、責任(を持つこと)を根拠にあたかも絶対的な正義を貫いているかの如く振る舞う。
が、人間は人間である。
時代や地域が変われば、正義の内容は変わるし、周りを見渡しても「自分(達)の正義」の衝突ばかりだろう。
議論や持論は良いとして、その先に、絶対的な正解、そして発展があるのだろうか。
そういうことだ。
知恵もまた然り。
どんなに考えても知恵を絞っても、神には永遠になれない。
やはり絶対はない。だから努力し続ける。
でもその先は?そもそも時間は残っているの?
ところで、もし仮に人間が哲学や知恵といったものを放棄し、動物や虫のような存在になったらどうなるか。
想像したくはないが、もちろんそこには進歩も無ければ文明もない。
医療もなければ麻酔技術もない…
だが、少なくとも地球は(今の状態よりも)長く存続するのではないか。
青い空と共に。
結論として
「良くしたい」という強い意志と知恵があるからこそ、人間(社会)は終焉に向かう、と考える。
極論だが、真剣に「良くしよう」と考えれば考えるほど、「正しいのは自分(だけ)」なのだ。
千人いれば千人の(正しい)世界の姿があるとも言える。
他方で現実には世界は一つにつながってしまっている。
しかし真剣に考えれば考えるほど、深く他者を理解しようとすればするほど、一つにつながることは難しくなる。
その先は…相互理解?アウフヘーベン(止揚)?
もちろん筆者も人間なので、死ぬのは怖いし、痛いのは嫌だ。人類滅亡なんて恐ろしくってたまらないよ。
でも、自然の流れとしては
人間(社会)は遅かれ早かれ原子に、素粒子に帰る。そしてまた繰り返す
ただそれだけ
の気がしてならない。
おわりに
お読みいただいていかがだったでしょうか。
おそらく殆どの方がプラスの印象を持たれなかったはずです。
筆者自身も、特に記事の後半はやり過ぎたかな(本音を書き過ぎたかな)とも感じています。
ですが、最後にこれだけは申し上げておきたいと思います。
筆者と大きく違わない人間が、あなたの周囲に(想像以上に)多くいるということを。
そして、それらの者たちを社会から完全には排除しきれないということを。
そうです。
世界は(絶対に認めたくない存在とも)どこかでつながってしまっているのです。
以上、つたない長文にお付き合いいただきまして誠にありがとうございました。
虐待に関する参考サイト:暴力を受けて育った大人の特徴: 親からの暴力と怒鳴り声— 今も続く心の傷とは? | トラウマケア専門こころのえ相談室 (trauma-free.com)